2016
05.08

新潟市 市営汐見台団地へ散歩

新潟

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 この団地は1964年(昭和39年)新潟地震の後、避難場所として、関屋分水近くに
建築され、1970年代はかなり子供も多く 放課後はにぎやかな声が聞こていた。
犬と嫁さんと散歩に何気なく通りかかった。
7歳上の嫁さんは、ここに友達が多く住んでいて当時中学生の時、
よく遊んだ記憶があるという。
 周りの松林に囲まれ、その向こうに見える万代が、時代の境界線に見えてくる。
今は、空き家がほとんどのとても静かな、様子。
時の流れを感じることができる大切な風景に見える。
他のどの住宅地も10年以内にこのような空き家が多くなることだろうから
未来の景色に見えてくる。

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子供の頃、警察官だった父の関係で、12歳まで、転勤で移動しながら5カ所ほど
警察アパートに住んだ記憶もあって、どれも私の子供の頃過ごした景色に非常に
よく似ている。今はもうどの建物も無くなってしまったので
この景色は、とても心に響いた。
若い人から見れば、不気味とか寂しいと感じるだろうが、僕には懐かしい景色だ。
もう誰も遊ぶこともないだろう、遊具の滑り台が印象に残った。
目の前は、日本海、冬はとても寒そうだが、景観のコントラストが効いて
より魅力的に見える。
最近、この遊具の右横にあった平屋と二階建てアパートは、取り壊され、
平成28年4月から「市営汐見台住宅」と名前が変わったそうだ。
新潟市中央区役所の「市営汐見台住宅跡地 活用案に関する提言書(H24年3月作成)
がダウンロードして公開・閲覧できます。
上記資料から「(元県営)市営汐見台団地」の歴史と変遷を抜粋させていただきました。

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汐見台周辺の歴史・変遷
【町衆の手によってつくられた海岸林】
<戦後の土地利用状況の変化>
新潟島では、1600年頃から寄居村などで砂防のための 植栽が行われてきた。これらの植栽は、当時の住民が嘆願 し、長い時間をかけ住民自らの手で行われてきた。 砂浜
また、住民提案によってグミの木などを根付かせる手法 の導入や柿畑などの利用など住民が主体となり積極的に 活用される林が形成されていたと思われる。
明治期には、新潟市内の小学生・先生らが自らの資金に より松の苗木を植え付けてきたという。この活動は昭和初 期まで続けられた。

【庄屋斎藤家による関屋の砂防事業】
斎藤家は、天保12(1841)年に、同家10代金兵衛が関屋 の庄屋となった。その2年後に初代新潟奉行として着任した 川村奉行から砂防林の植栽を命じられる。これにより、松や その他の砂地に耐える植林に努めた。
12代金兵衛(金衛)は、嘉永5年から100町歩の松林を植 林している。
保安林から公営住宅地へ
浜浦小学校 新潟工業高校
浜浦小学校
日本歯科大 関屋中学校
競馬場
海岸線が現在より200mほど沖に伸びていた。汐見台周辺の海岸林 は戦時中に利用されたため疎林となっている 。

<1964年、新潟地震災害復興計画>
1964年に発生した新潟地震後の震災復興の一環として、 早急に、地耐力の比較的強い場所に公営住宅を整備する こととなり、汐見台もこの候補地として選定された。
これにより、当時の保安林の一部をやむを得ず解除し、 現在の県営住宅および、市営汐見台住宅が建設された。
1970年に関屋分水が完成。競馬場跡地に住宅地移転

【1964年新潟地震災害復興計画の一文】
宅地造成にあたっては、丘陵部など地耐力のある適地を選 定し、自然景観を適当に保存し、団地内の公共施設をはじ め市街地中心部との交通確保をはかるとともに、産業公 害を配慮して緑地帯の造成を進め、理想的な住宅環境と して整備をはかる。

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